僕のこと Mi Historia Personal /My Personal History
【好き放題やった学生時代】
1962年10月24日、大阪市生まれ。
大阪市とは言え、僕が育った「長吉(ながよし)」は市の南東の端っこで、ちょっと歩けば田んぼが広がっていて、その先には大和川が流れている、のどかな土地だった。当初はバスしか交通機関がなく、地下鉄が通ってやっと電車通学になったのは高3の11月末になってからだ。
1982年4月、大阪外国語大学イスパニア語学科(スペイン語学科、大阪府箕面市)に入学。
先輩たちには申し訳ない言い方になるが、「外国語劇は伝統あるけど、それ以外の部分は毎年やってるしとりあえず最低限のことをやるわ」ぐらいのノリだった学園祭を、仲間と協力して、大学のある場所の地名にちなみ「間谷祭(またにさい)」と名付け一気に盛り上げることに成功(1983年度はⅠ部〔昼間部〕実行委員長)。同時に大阪南YMCA(大阪市天王寺区)、山王こどもセンター(大阪市西成区)、日本基督教団・西宮公同教会(兵庫県西宮市)などで小・中学生対象の活動、「釜ケ崎こども夜まわり」等々、様々な活動をやった。
高校の頃、クラスの生徒全員の前で定期試験の僕の順位を発表した担任と(他の者は明らかにされなかったのに、なぜか僕だけだった。それによって発奮させようとしたのはわかるけど)、「いやー、そんな小さいことまで褒めてくれんでも」と思うくらい、なんでもかんでもアゲアゲの担任とに出会った。高校時代どちらかと言えばクサクサしていた僕が大学に入ってからは結構のびのび動けたことには、この後者の先生との出会いも影響していると思う。
【そうだったのか! in メキシコ】
1985年3月にメキシコをバスで旅したときに、僕が中学生の頃、朝の情報番組の中で観ていた「キャラバンⅡ」という一コーナーを思い出した。自動車2台を連ねて、北はアラスカから南はチリ/アルゼンチンのフエゴ島まで取材しながら走るという企画のうちで、特にスペイン語圏の「何か」に自分が強く影響を受けていたことに思い至った瞬間だった。このときに感じた憧れを、僕はその1年余り後の1986年8月から約1年の間、メキシコ国立自治大学 Universidad Nacional Autónoma de México への留学という形で結実させる。これを書いている今・2010年代に比べて当時メキシコはまだ(印象として)遠い国で、奨学金試験の競争率が明らかに低かったことも影響した。
僕が学んだ外国人学生教育センター Centro de Enseñanza para Extranjeros のすぐ隣には一般学生が学ぶ心理学部があって、僕はよくそこに出入りして友だちを作った。そこで見たことは、例えば同じ1年生でも、17歳から18歳、19歳、20歳くらいは普通にいて、子育てが一段落したり、仕事がひととおり終わったりしてから大学に行こうという人まで年齢は千差万別だということだ。当時の日本では、とりあえず一浪までは(今で言う)タメ口で構わないが、何かの事情で2歳以上違う者が同じ学年にいることは結構珍しく、時には「さん」づけで敬語扱いになったりしていた。それに比べてメキシコでは(日本のような敬語の習慣がないことも影響しているとは言え)どんな年齢、どんな境遇、そしてどんな人種でも「同じ土台の上のあなたと私」である。
そうか、やっとわかった。それまで、日本にいて「なーんか生きにくい、でもこの原因はいったい何やねん?」という、ずっと心から離れなかった疑問があった。「日本では、隣にいる者と何でも同じことをすれば、とりあえず落ち着くようになっている。同じようにしたい人はそれでいい。でも『同じようにできない、しない者』が息苦しい国なのではないか」……僕はこれにメキシコで1つの解答を得たと同時に、後に「同調圧力」という短い言葉で語られるようになったこの状況を「なんとかする」ことが、このあとの僕の大きな目標になった。