1月17日・火曜日

 1月15日の日曜日に、フィギュア・スケートの日本選手権大会が神戸のポート・アイランド(通称ポーアイ)にある(僕の記憶が正しければ)ワールド記念ホールで開かれ、(同じく、僕の記憶違いでなければ)女子シングルは小岩井久美子という選手が優勝した。そして17日火曜日、つまり2日後。その埋め立て地「ポーアイ」は、地盤液状化現象に悩まされたのである。 もちろん今年の話ではない。曜日は同じだが、1995年のことだ。 1月17日朝5時46分、淡路島北部を震源とする未曾有の大地震が近畿地方を襲った。それから11年。僕の計算によればだが、間に閏年が入っているから、実は同じ「1月17日の火曜日」は今年が初めてなのだ。 当時神奈川県藤沢市にひとりで住んでいた僕はその朝、いつもより遅めの時間--7時40分頃--にタイマーをセットしていたJ-Waveの音楽で目覚めた。曲が終わり、いつもの調子でジョン・カビラさんがしゃべり出す……かと思いきや、どうもカビラさんの様子が違う。 「大阪の南森町にあります、FM802の○○さんに電話がつながりました。○○さん!」 電話の向こうの802の社員さんは、放送局とその周辺の様子を生々しく伝えた。「ここは震源からはちょっと距離がありますのでこの程度ですが……」地震?! 慌てて飛び起きた僕がつけたテレビに現れたのは、なんとも無残に崩れ落ちた阪神高速の映像だった! 2006年の今は結婚して子どももいるT美ちゃんと、ここをドライヴしてポーアイまで行ったことなんて、思い出している余裕さえなかったぐらいの衝撃だ。 何分間大口をあけながらテレビを観ていたかわからない。やがて我に返った僕は、大阪市は平野区にある両親の家の番号をダイヤルした。「ただいまおかけの地域には、通話が集中しているため……」何度もリダイヤルを重ねたが、全くつながらない。 だが、震源は明石海峡あたりなのは早くにわかった。大阪市の南東の端っこはそんなに大変ではないはずだ。とりあえず僕は勤め先に向かい、出勤途上の公衆電話から実家に連絡した。この時はすぐにつながり、僕は「災害の時には一般の電話より公衆の方がつながるようになっている」ことを図らずも知ることになる。団地の11階にある実家の被害はワイン1本と皿数枚であることがわかり、ひとまずはホッとした。 その後数日、いや数十日、僕はテレビと新聞の死亡者名情報だけにはちゃんと注目して、決して実家以外には電話はかけなかった。安否を知りたい友人は山のようにいたが、僕が無闇やたらに電話することによって、本当に電話を必要とする人の分が妨げられてはいけない、と本気で考えていたのだ。 それとは別に、地震の約10日後、僕はたまたま友だちの結婚記念パーティーで大阪に行くことになる。そのついでに西宮北口まで何とか開通していた阪急電車に乗って、学生時代によく行っていた西宮の教会に行った。牧師が完全にテンパっていた。北口の駅の周辺の、その頃僕が住んでいたのと同じ水準のボロアパートは、ことごとく1階部分がへしゃげていた(因みに当時の僕の部屋は1階だった)。さらにそのあと、神戸で被災したペルー人を見舞いに和歌山の病院まで行った。東京の人に頼まれていたのだ。 昨日ここで触れたラムさんもブログで書いておられた(1/16付。関西と関東とのマスコミの取り上げ方の違いも書いてあります。1/17付にコメントのお礼ももらったし、必見)が、やはりこの地震は特別な意味を持っている、たぶん、僕たち関西人の大部分には。 藤原紀香さんや佐藤江梨子さんが「地震に遭ったことをきっかけに、いつ何時どんなことがあっても構わないように生きようと決心した」という意味のことを異口同音におっしゃっていて、僕が病気になって考えたことと似ていると思ったが、これも彼女たちにとっての「特別な意味」なのだろう。テンパっていた牧師だけでなく、家の壁が抜けた友だちはいたし、僕にとって全然他人事ではなかったこの地震。 この地震で亡くなったたくさんの方々のご冥福を改めてお祈りすると同時に、この教訓を決して風化させないようにしたいと思う。……て言うわりには非常用品とか相変わらずちゃんと整備してへんねんなあ……。

千兵衛の "「居場所カレー屋」まで、HALF A MILE AWAY"

「昼ごはん時はカレー屋さん、午後は若い子たちの居場所にして、晩ごはんの時間にはまたカレー屋に戻る……」そんなお店を将来やることだけは決めた。ただ、カレーを作るのと人と話すのは好きやし今までやり倒してきたけど、店を経営したことがあるわけじゃなし、皆さん、知恵と力を貸して下さーい!というサイト。踊ったり遊んだり、毎日の生活満載の Instagram, Facebook やブログのリンクも貼っています!

0コメント

  • 1000 / 1000