リハビリテイションと品性
「リハビリが順調にいくかどうかって、その本人の品性とか、根性とか、知性とか、あと周りの人の理解とか助けとか、そういうものに左右されるの。症状はすごい軽いのに『もう私はダメですぅ』みたいな顔してる人とかさ、逆に状態は結構重いのに心は生き生きしてる人とか、いろいろいるんだよねー」 高齢者在宅介護の包括支援センターに勤める妻の言葉だ。先日、何かの弾みに突然この科白を思い出して、彼女が僕の母を評してこう言ったのか、僕の友だちのるりちゃんのことを表現したんだったか、僕はわからなくなってしまっていた。ことほどさように、僕にとってこの2人の「病気」や「障害」に対する態度は似ていて、尊敬に値するのだ。 母。遂に昨日3日、大阪Y市のリハビリテイション専門病院から退院して、半年ぶりの自宅生活に戻った。去年12月に倒れた時は本当に最悪のことも考えただけに、夢のような話である。今の病院に移って3か月半、身体の機能は飛躍的に伸びたものの、まだまだ不自由さがたくさん残るのもまた事実である。 この間、本人がかなり頑張ったのもさることながら、父が母の状況をしっかりと受け入れ、受けとめて付き合ってきたことで、母のリハビリも随分勇気づけられてきたはずだ。2人を見ていて、母、父、どちらの立場に僕が立ったとしても、あれほどまでに状況を理解しきれないと思う。もっと気持ちが荒れて、腐ってしまうと思う。 かたや、るりちゃん。僕と似た病気が見つかったのは高校受験の直前の秋だ(余談だが、僕の34歳の誕生日当日だ)。いくら僕が「比較をしないようになった」とは言え、さすがに四十過ぎたおっさんが大病するのと、同じような病気を十代の女の子がするのとでは訳が違う。 彼女は手術を経て、その大混乱の中、「受験をもう1年待つ」ことはせずに、「ランクを落としてもいいからとにかく高校へ入る」という選択をする。もし15歳の僕に同じことが起こったら、おそらく同じ決断はしないだろう。 僕が出たのは大阪府立天王寺高校、今の学区制度はどうなっているかわからないけど、1978年当時の第6学区のいわゆる「トップ校」だ。よく僕が話のネタにするのだが、僕は確かに高校に入るあたりまでは学校の成績はよかった(入ってからボロボロになったのもまた事実である)。僕は変なプライドだけは強いので、そんな時にもし受験勉強が妨げられたら、とても冷静ではいられないし、もっと心はすさみ、悩み、迷いまくって、そう簡単に「ほな、ランク下げまっさー」てなことにはたぶん、ならない(もっとも、るりちゃんも悩んだ上での決意やったかも知らんけどね)。 こういう書き方をすると、中森明菜さん演じる「プリマダム」の倉橋蘭子のような「線の細い薄幸の美女」を想像するかも知れませんが、今のるりちゃんは至って元気な女の子です。どちらかと言うと、僕は単に女性としての彼女にキョーミがあってお近づきになりたくて、そしたら病気の話が後からくっついてきたんだよねー。でもこういう出会いも素敵やわ。↓秦野の「遺跡公園」に連れて行ってもらった時のスナップショットです。右がるりちゃん。 大阪の学区話のおまけ。僕の住んでいた平野区は第7学区なのだが、交通の便などの理由で、隣の学区と接している市区町村(この場合、阿倍野区)にある高校などが「調整校」と呼ばれ、他学区からの入学も可能だった。当時の第7学区のトップ校は生野高校、ここの卒業生で今最大の有名人は宮本恒靖選手(ガンバ大阪--彼にちなんでこの段落の文字色はガンバ色。)です。更にどーでもえー話やけど、彼の出身中学は富田林市立金剛中学らしいぞ。
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