ロマンチックな結婚準備
20年ほど前、僕の友だちの結婚式が一通り終わったあと、司式をした牧師が挨拶の中で言った。 「結婚するということは、習慣の違う2人が一緒に暮らすということです。それぞれが長い間『これが当たり前や』と思うてやってきたことが、相手にとってそうでない場合もあります。 僕の聞いた話なんですが、ある夫婦の夫のほうは、歯磨きのチューブ、あれが少のうなってきたらお尻からきっちり絞らな気ぃ済まん人やったらしいんですわ。ところが嫁はんはテキトーな場所を押して使いよる、それがどうにも我慢ならんと、僕に言うてきよるわけです。 そんなねえ、惚れて結婚したんやから、それぐらい何とかせえて言うんやけどすぐには何ともならん。これから結婚生活始めようっちゅう2人に、こういう言葉かけるのはちょっと申し訳ない気もしますが、そういう小さなことも、場合によってはちゃんと話し合うてやっていかんといかんこともあるみたいです」 この牧師は、普段の説教でも「イエスはその辺にいてるおっさんみたいな人やった(かと言って価値がないという意味ではもちろんありません、念のため)」てなことを平気で言うことによって聖書の内容をわかりやすく説く人だったので、この挨拶の内容もさもありなんと思えるのだが、僕が今日ここで言いたいのはそこではない。この「歯磨き」の例に見られるように、他人同士であったはずの男と女が一緒に暮らすことになれば、話し合って折り合いをつけねばならないことは五万とあるということだ。 これまで2回続けて、このブログという場で初めて「別姓」について発信してみて、そしていろいろな方々の別姓についての考え方を拝見してみて、改めてわかったことがいくつかある。それらのうちで特に興味深いものは、1.この国で別姓を法定化することが、男女の関係の新しいあり方を創造しそうだということ2.別姓を望む人にもいろいろな立場があるということそして、3.別姓に反対する方々のご意見からは、「この別姓実践者がこう悪いから別姓はよくない」という実例に則した具体性があまり見えてこないこと……などだ。 まず、1.は、先日いただいたゆきさんのコメントなどから感じる。「従属的に名字を変えてって方とは縁がなかったことにしたい」、同姓(しかも、女が男の姓に変わること)が至極当たり前のことと初めから考えているようなひととは付き合えない。つまり結婚後の姓をどうするかというのが、今やかなりの組数の男女によっては、歯磨きの絞り方とか、子どもを何人持とうとするかとか、食事をどちらが作るかなどに並ぶ、「話し合わなければならない重要な要素」らしいのだ。 また、数日前、朝日新聞の投書欄に、二十代の男性のこんな投書が載った。曰く、「子どもの頃、好きな娘の名前をノートに書いて、その娘の苗字を自分のものに変えて『この娘は僕と結婚したらこんな名前になるんだ』と空想した。夫婦別姓になると、そういうロマンチックな想像も叶わなくなる。新しい時代の婚活は大変だ」……と。 おっしゃりたいことはわかる。しかしまずこの人には、別姓が法定化されなくても、既に世の中の人のうちの何人もが、彼の言うところの「ロマンチックな」ものとは別の結婚観を持っていることを知ってもらえればと願う。 またそれと同時に、結婚したいと思う相手とちゃんと向き合って、「2人の苗字、どうしようか?」と話し合うことこそが「ロマンチックな結婚準備」かも知れないと、ぜひ思い至っていただきたい。事実、僕たち夫婦は12年前、それも結婚前の会話の1つだったのだから。 なるべく冷静にやろうと思ってるんですが、別姓を論じるとどうしても僕は熱くなります。2と3については、次回以降で。……とは言え、前々回の書き込みで「(*)」をつけながら、文章の最後で解説をつけるのを忘れていた内容があるので、今回で補足します。(*)ペーパー離婚……事実上の結婚生活は送っているが、何らかの理由で法律上は離婚状態にある、或いは婚姻届を出さない状態にある形。この言葉は元来「別姓」という文脈でのみ使われるわけではないが、僕がここで述べているのは、法律上の名前をも含め別姓を実践する意味での「ペーパー」である。 検索語「ペーパー離婚」でいくらでもサイトは引っかかるので、必要ならそちらで詳しくはお調べ下さい。
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