選手より目立つコーチの想い出
小林繁・北海道日本ハムファイターズ1軍投手コーチが、1月17日に福井市の病院で急逝した(享年57歳)。 1973年に、社会人野球の全大丸(京都市)から前年度のドラフト6位で読売ジャイアンツに入団。特に、シーズン終盤の優勝争いの相手・阪神タイガースとの25回戦(後楽園)で10対10の9回表に登板、新人ながらそのまま引き分けに持ち込む好投を見せた細身の投手は、実況中継を観ていた小学校5年生の僕の脳裏にも強く焼きついた。その後彼は、1976, 77年に連続で18勝を挙げ、長嶋巨人の2連覇に貢献。 しかし78年11月、運命の「空白の一日」事件が起こる。当時のドラフト制度は、「指名された選手の交渉権は、翌年のドラフト会議の前々日まで、指名した球団が有する」というものだった(小林自身がこの規定に従って、ドラフト会議の約1年後に巨人に入団を果たしている。現在は社会人チームの所属選手については会議翌年の1月末、それ以外は3月末まで)。 前年度のドラフトでクラウンライター・ライオンズ(現・西武)に指名されながら入団を拒否していた江川卓(当時・作新学院職員)の入団を画策していた巨人軍は、「ドラフトの『前日』はどこの球団と契約してもよい『空白の一日』」というとんでもない論理を持ち出し、江川との契約締結に漕ぎ着ける。その結果、巨人は翌日のドラフトをボイコット。 そして、そのドラフトで指名権を得た阪神タイガースが一旦江川を入団させ、巨人の選手と交換することになる。新人選手をシーズン開始前にトレードするなど言うまでもなく「第2のルール破り」だが、そうでもしないと事態は収拾しなかった。その相手に指名されたのが、巨人の宮崎キャンプに向かうべく羽田空港にいた、小林繁その人だったのだ。確か小林は「野球が好きだから、トレードのお話をお受けします」という言葉を残して、突然の移籍通告を受け入れたように記憶している。小林はその年静かな怒りを燃やし、巨人戦8試合に全てに勝利したのを含めて22勝を挙げ、最多勝を獲得した。 1983年のシーズン限りで引退した小林は、解説者・タレント活動を経て、1997年(大阪ドーム元年シーズン)に、当時の佐々木恭介監督に請われて近鉄バファローズの投手コーチとなる。5年目の2001年、梨田昌孝監督の下で優勝を果たすも、4.98というリーグ最低防御率の責任を取り辞任。2007年、SKワイバーンズ(韓国)のコーチを1年務め、昨09年日本ハムの二軍コーチとして復帰。今年からいよいよ、再び梨田監督の下でその手腕を発揮しようとしていた矢先の、突然の死だった。 特徴的な横手投げのフォームをすれば小林。お腹を出し気味にちょっと偉そうに歩けば江川。2人とも、25年前には簡単に真似することができた、スター選手だった。そして近鉄のコーチ時代の小林さんは、ベンチからマウンドに向かって歩く姿だけでも絵になった。当のピッチャーよりも目立ってしまったくらいだ。 そんな、未だ野球界にとって「グラウンドの宝」だったはずの小林さん。ご冥福をお祈りします。
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