Amistad sin fronteras
26日に書いたラウラは、20年ほど前に大阪外大の留学生別科にいたメキシコ人の建築家だ。 当時あった「留学生別科」とは、日本に留学してきた外国人が、まず半年間日本語を集中的に学ぶために入るところで、あのジュリー・ドレフュスさんがいたのは有名な話である(ただ、僕に見覚えがないのは、どうもそれがちょうど僕がメキシコにいた間だったかららしい)。 外大生は各専攻語を話すネイティヴ・スピーカーとして、留別生は日本語の生きた教材としてお互いを重視し、本当に友だちになる者も多かった。 ラウラがいた期のスペイン語圏の学生たちと僕とは比較的仲がよく、国立文楽劇場に連れて行ったことも楽しい思い出の1つだ。心中物をぜーんぶスペイン語で解説するのはえれー大変やったけど(クロネコメール便の比ではない)。 彼女はその後、津にある三重大学の院に移った。横浜で就職したばかりのビンボー青年だった僕は、大阪に帰ると言っても大抵夜行バスだ。まず名古屋に朝に着き、近鉄の急行に乗って津まで行く。そして彼女に会い(彼女だけととちゃうねんけど、その辺の細かい話はまあ、よしとしてね)、1日を過ごした後、また急行でチンタラ(中川乗り換え)大阪まで帰る、これがお決まりのパターンだった。 更に数年の後京都に移った彼女は、そこで知り合った泰晴さんと90年代頭に結婚(僕、パーティーに出ました。素敵でした)。いつだったか忘れたけれど、やがて2人は彼女の故郷ハラーパに移住、2児をもうける。それ以降2人からは毎年、前の年の出来事を綴った年賀メールが届くというわけである。 「2人から」と言っても、さすがにラウラはかなり日本語を忘れているらしく、実際に日本語のメールを書いているのはお連れ合いさんの方だろう。この「一斉メール」以外にも、特に僕の脳腫瘍の摘出手術の前後には、ラウラからは何通もの(西・日語混ぜこぜの)激励メールをもらって、嬉しかった。 26日の記事に書いたように、本当に彼女たちが日本に来て、会えるとしたら一体何年ぶりなんだろう? 人形浄瑠璃に始まって、メールで保ち続けた関係が、約20年目の今年、また実を結ぶのか、さて?
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