所沢に起こった竜巻
1990年6月、まだ屋根がなかった頃の西武ライオンズ球場。僕は、西武ファンの友だちと2人で、西武ライオンズ対近鉄バファローズの試合を観ていた。 マウンド上には、当時確かエースだった、現ライオンズ監督の渡辺久信。そして前年度の新人選択会議で8球団の指名を受けて、鳴り物入りで近鉄入りしたばかりの野茂英雄がいた。 1回表のバファローズの攻撃は無得点。1回裏、立ち上がりのコントロールの悪さで知られていた野茂は、いきなり3つ連続の四球を出す。無死満塁。続く打者は、当時黄金時代だったライオンズが誇る強力打線だ。「こらあかん……」近鉄ファンが大量失点を覚悟したその直後、野茂は別の「野茂らしさ」を見せるのだ。 なんと、彼は自ら作ったこの絶体絶命のピンチの中で、清原和博(現オリックス)、オレステス・デストラーデを連続三振に仕留め、続く伊東勤(後に西武監督)を内野ゴロに切って取り、この回を無得点で切り抜ける。このあと両エースの息詰まる投げ合いは続き、延長10回表、ジム・トレイバーの右翼席へのホームランが熱戦に終止符を打つ。 それから4年後の1994年、同じ西武球場(この試合は、自分で観に行ったわけではない。展開などの詳細についての記憶が少し曖昧だが、大筋は合っているので、ご容赦いただきたい)。開幕戦の先発に野茂を起用した新人監督の鈴木啓示は、8回まで相手打線を完璧に抑えきっていたにも拘わらず9回裏突如崩れたエースに代え、満塁の場面で赤堀元之をマウンドに送った。リードは、石井浩郎のホームランによる1点のみ。 この起用にはその後、様々な議論があった。「あそこは野茂と心中でしょう」「いや、パ・リーグno. 1ファイアマンへの信頼が優先するんとちゃうのん」なぜ賛否が相半ばしたか。このあと赤堀が、こともあろうにホームランを打たれてサヨナラ負けを喫してしまったからだ。しかも、長距離打者とは言えない、伊東勤に。 交替を命じられたときの野茂が、4年前の同じ場所の、似たような場面の同じ打者との対決について、思い出したかどうかはわからない。ただ、もしも彼が、「いえ監督、いけます、前も同じような場面で抑えました」と主張したのに代えられたのだとしたら……。当時のバファローズは彼にとって力を発揮しきれない環境だったことが、翌年の彼の渡米につながった1つの理由だと言われているが、その説が正しいとすれば、これはそれを裏付ける出来事なのかも知れない。 余談だが、次の日、同じカードを観戦するため西武球場の外野芝生席にいた僕は、試合前に文化放送のアナウンサー(おそらく、水谷加奈さん)に前日の感想を求められ「いやー、ドーハの悲劇のような、リレハンメルの原田の失敗ジャンプのような気分でした」と答えたことを憶えている。 ロサンジェルスへ移った後の彼の活躍は、誰もが知るとおりである。そのきっかけは、部分的にとは言え、意外と「ヤケッパチ」と言っても差し支えないものだった。しかし、僕にとってはあくまでも彼は「日本プロ野球を数々の名勝負で盛り上げた男」としての印象が強い選手なのである。 野茂、お疲れさま。素敵な思い出をたくさん、どうもありがとう。
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